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【HGPI政策コラム】(No. 71)―認知症プロジェクトより―「認知症対策のその先へ、生涯を通じて脳の健康を育む」

【HGPI政策コラム】(No. 71)―認知症プロジェクトより―「認知症対策のその先へ、生涯を通じて脳の健康を育む」

<POINTS>

  • 「脳の健康」は単なる疾患の有無ではなく、生涯を通じて個人が本来の可能性を発揮し、社会に貢献できる状態として再定義されつつあり、社会・経済の持続可能性を支える基盤として位置づけられている。
  • 「脳資本」は脳の健康と脳スキルの総体として、人々の創造性や問題解決力、共感性等を引き出し、社会の繁栄とウェルビーイングを支える戦略的資産として捉えられる概念である。
  • 認知症領域において「脳の健康」概念を導入することで、疾患中心のネガティブな認識を転換し、ライフスタイルや日常行動を通じた主体的な健康維持・増進への関与を促進し、スティグマの軽減につながる可能性がある。
  • 一方で、「脳の健康」という包括的概念に偏重すると、アルツハイマー型認知症等の個別疾患に対する診断・治療・研究の議論や予算が希薄化するリスクがあり、両者をバランスよく並行して推進する必要がある。
  • 今後は、認知症や脳関連疾患の有無にかかわらず、すべての人の脳機能・感情・スキルを社会的資産として捉え、労働や社会参加を含む多様な領域で包摂的かつ事前的な投資を進めることが、共生社会の実現に向けて重要である。


日本医療政策機構では2025年12月に、新政権に対する政策提言『「脳の健康」を取り巻く政策への戦略的投資が拓く「日本再起」への提言』を公表し、脳の健康を成長戦略の中核に据えることの必要性を提起しました。本コラムでは、「脳の健康(Brain Health)」(以下、脳の健康)の世界における議論を概観し、認知症領域を軸としつつ脳の健康を考える意義について検討します。

「脳の健康」をめぐる議論

近年国際社会では、脳の健康は個人の健康課題にとどまらず、社会や経済の持続可能性を左右する基盤として、再定義されつつあります。WHOでは脳の健康を、認知、感覚、社会・情動、行動、運動といった各領域にわたる脳機能の状態を指し、疾患の有無にかかわらず、生涯を通じてその人が本来持つ可能性を最大限に発揮できることを可能にするものと定義しています。これは、単に疾患がない状態を指すのではなく、個人が生涯を通じて自らのポテンシャルを最大限に発揮し、変化する環境に適応しながら生涯を通じて学び、社会に貢献できる状態を意味します。

この変化の背景には、「脳資本(Brain Capital)」(以下、脳資本)という新たな概念の台頭があります。脳資本とは、人々が生涯を通じて蓄積する知識、創造的スキルなどの「脳スキル(Brain Skill)」(以下、脳スキル)、そして最適な脳の健康の総体であり、これらを基盤として、社会の中で人々が自らの力を発揮し、その潜在能力を最大限に活用することを可能にする概念です。

AIをはじめとするテクノロジーの進歩により、定型的な作業を正確にこなすことよりも、人間が持つ高度な認知能力や感情能力を用いた活動の価値が高まっています。こうした中、脳資本へ投資し社会として脳の健康を育むことは、ライフコースに応じた最適な脳機能の状態を支えることを可能にします。その最適な状態を基盤として、創造性、批判的思考、複雑な問題解決、適応力、レジリエンス、共感といった「脳スキル」を最大限に引き出し、社会の繁栄とウェルビーイングを支えるエコシステムに寄与することにつながります。

認知症領域で「脳の健康」概念をどう捉えるか

このように、一人一人の脳の健康を社会全体の資産として再定義し、経済成長の原動力として捉え直す「脳資本」および「脳の健康」という概念は、認知症政策の進展においても重要な意義を持ちます。2026年1月には、世界認知症審議会(WDC:World Dementia Council)が、英国の認知症アドボカシー団体「Alzheimer’s Society」の支援のもと、「Brain Health advocacy」と題するバーチャル対話を開催しました。本セクションでは、この対話での議論を踏まえ、認知症領域における本概念の捉え方を整理します。

<認知症そのものへの認識の変化>

  • 脳の健康という枠組みは、従来の「認知症」や「アルツハイマー病」等という言葉が持つ、「避けられない恐怖の病」というネガティブなイメージを一新し、ライフコース全体を通じて自身でコントロールできるものとしてより前向きに再定義することができる。
  • 疾患予防という文脈だけでなく、脳の健康を育むという視点から、食事、睡眠、ライフスタイルといった具体的で日常的に取り組める要素について議論することが可能となる。
  • 人々に「自分でコントロールできる」というエンパワメントの感覚をもたらし、誰もが日常的に取り組むことのできる健康維持・増進として主体的な関与を促すことができる。
  • 認知症とは直接的に結びつきにくい、学校教育やスポーツの場等のコミュニティとの連携も実現しやすくなる。

<医療費増大のコストから「国家の戦略的な資産」へのパラダイムシフト>

  • 従来、認知症やメンタルヘルスは国家や企業にとってコストとしてみなされてきた。しかし、脳資本の考え方を導入することで、脳を物理的資本や金融資本と同じ国家の戦略的な資産として定義することができる。
  • 脳の健康という広範な枠組みを用いることで、従来の認知症研究の枠を超えた大規模な資金の動員も可能となる。

<脳の健康を中心とした議論や政策推進におけるリスク>

  • 投資や政策の議論が、脳の健康という抽象的なスローガンに帰着してしまうと、特定の疾患に対する必要な診断・治療・研究のための予算の希薄化リスクや、政治家によるアピールに消費され、実質的な治療アクセスの改善を置きざりにする可能性がある。
  • そのため、個別疾患対策と脳の健康増進を両輪としてバランスよく推進することが重要である。

以上の視点を踏まえると、日本の認知症政策において「脳の健康」という概念を導入することにより、認知症という言葉や状態に対するスティグマの軽減につながるとともに、ライフコース全体における脳への関心を高めることが可能となります。一方で、「脳の健康」を議論の中心に置きすぎると、アルツハイマー型認知症やレビー小体型認知症などの個別疾患に関する検討がおざなりになるリスクがあります。そのため、日本国内において今後議論を進める際には、個別疾患の診断・治療・介入に関する議論と、「脳の健康」という包括的な議論とを、必要に応じて切り分けながら、並行して進めていくことが重要です。

さらに、人々が自分らしく生きられる共生社会の実現に向けては、認知症や脳の健康に関連する疾患・障害の有無にかかわらず、労働や社会参加を含む多様な場面において、すべての人が持つ脳の機能・感情・スキルを戦略的資産として捉え、包摂的に事前的投資を進めることが期待されます。脳の健康を生涯を通じて最適化できる社会を創造するため、今後、脳資本及び脳の健康に関する更なる議論が求められます。

 

【参考文献】

 

【執筆者のご紹介】

森口 奈菜(日本医療政策機構 シニアアソシエイト)

 

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