【開催報告】第98回HGPIセミナー「ワクチンの研究・開発体制の再構築に向けて~国民の健康と国家の安全保障を支えるために~」(2021年8月24日)
今回のHGPIセミナーでは、東京大学 医科学研究所 ワクチン科学分野 教授の石井健氏をお招きし、「ワクチンの研究・開発体制の再構築に向けて~国民の健康と国家の安全保障を支えるために~」と題して、コロナワクチン開発の経緯や日本のワクチン研究・開発体制における現状の課題、今後の展望などについてお話しいただきました。
なお本セミナーは新型コロナウイルス感染対策のため、オンラインにて開催いたしました。
<講演のポイント>
- 新型コロナウイルス感染症発生以降、各国がワクチン開発競争にしのぎを削り、約1年という極めて短期間で、世界規模にワクチン生産・供給を行うという「歴史的、破壊的イノベーション」が実現した
- その背景には、「基礎研究から生産・供給に至るまでの各開発プロセスの同時進行による大幅な期間短縮」と「従来のワクチンとは異なる作用機序を持つ、新しいワクチンの実用化」の成功があった
- 今回のパンデミックによって、外交・安全保障の観点も含めてワクチンの重要性が再認識された。日本の課題は平時におけるワクチン開発への投資の不足、司令塔機能を果たす研究拠点の不在等が挙げられる
- 今後のワクチン開発においては、国際的視座を持った研究拠点の整備、最新のテクノロジーや科学的知見を用いた研究開発の推進、さらには医学部教育におけるワクチン及び感染症対策に関する系統的な教育の実施、市民、特に子どもからのワクチンの正しい情報の普及・啓発活動等、多岐に渡る取り組みが必要である
■コロナワクチン開発で起きた歴史的かつ破壊的なイノベーション
2019年に発生した新型コロナウイルスの感染拡大によって、ワクチン開発の重要性と緊急性が改めて浮き彫りとなった。各国がワクチン開発競争にしのぎを削り、100種類以上のワクチンの開発が行われてきた。そして、米国や英国等一部の国の製薬企業、研究機関が開発に成功し、現在では多くの国でワクチンが供給されている。日本でも研究開発が進められているが、2021年8月現在、国産ワクチンの開発には至っていない状況である。
通常、ワクチン開発は10年以上の期間を要する。しかし、今回のコロナワクチンにおいては、開発開始から1年以内という極めて短期間で、世界規模にワクチン生産・供給を行うという「歴史的、破壊的イノベーション」が実現した。その背景には、「基礎研究から生産・供給に至るまでの各開発プロセスの同時進行による大幅な期間短縮」と「従来ワクチンとは異なる作用機序を持つ、新しいワクチンの実用化」[1]に成功したことが要因として挙げられる。
■基礎研究から生産・供給に至るまでの各開発プロセスの同時進行による大幅な期間短縮
ワクチンが開発され、供給に至るまでのプロセスには、「基礎研究」「非臨床試験」「臨床試験(第1相~第3相)」「薬事申請・審査・承認」「生産体制整備」「生産・供給」がある。通常のプロセスにおいては、例えば、第1相試験が完了してから第2相試験に移行するといったように、各段階一つずつ順番に(直列的に)開発が進められている。一方、コロナワクチン開発では、前の段階が完了する前に次のプロセスも同時並行で実施する形で、開発が進められてきた。例えば、臨床試験の段階で薬事申請・承認プロセスが開始されている。また一部の国では開発段階から、自国の国民への投与量以上のワクチンを製造する体制を整備していたことで、開発成功から極めて短期間で世界各国へ供給が開始された。このように、通常直列的に実施されている開発プロセスを、並列的に進めていくことにより、開発期間の大幅な短縮が実現した。
また現在、この開発期間のさらなる短縮化が目指されている。2021年6月に英国が議長国を務めたG7では、今回のコロナワクチンの生産・供給に要した期間(約300日)を、約100日に短縮することを目指す「100 DAYS MISSION」が宣言された。この宣言は、COVAXファシリティ(COVID-19 Vaccine Global Access Facility)をはじめ、感染症流行対策イノベーション連合(CEPI: The Coalition for Epidemic Preparedness Innovations)やビル&メリンダ・ゲイツ財団も関与している。日本政府も宣言に署名しており、私たちも100日でワクチンを開発する方法を模索する必要がある。
■従来のワクチンとは異なる作用機序を持つ、新しいワクチンの実用化
また短期間でのワクチン開発が実現した要因として、従来のワクチンとは異なる作用機序を持つ、新しい種類のワクチンが実用化されたことも挙げられる。具体的には、mRNAワクチンやウイルスベクターワクチンであり、承認次第ではDNAワクチンもその1つとなる。
これらのワクチンは、全く新しい技術(モダリティ)というわけではなく、約30年前(1990年代)に基礎となる研究論文が発表されて以降、そのコンセプトを応用したワクチンや医薬品の開発に向けて研究が進められていた。mRNAワクチンは炎症反応が大きいこと、mRNA分子が不安定であること等から実用化が困難であったが、2005年にカタリン・カリコ氏、ドリュー・ワイスマン氏らの研究論文の発表により、炎症反応を抑制して、mRNAを投与する方法が明らかとなり、大きく研究が進展した。さらにドラッグデリバリーシステム[2](DDS: Drug Delivery System)の改善もあり、今回のmRNAワクチンの実用化につながった。
mRNAワクチンは、従来のワクチン(生ワクチン、不活化ワクチン等)に比べて早く生産できるうえに、生ワクチンと同等の免疫誘導能力(抗体・細胞性免疫)を有している。その一方で、従来のワクチンが長い歴史の中で安全性が確立されているのに対し、新技術であるがゆえにmRNAワクチンは長期の安全性についてはいまだ明らかになっていないことも多く、今後のエビデンス構築が求められている。
■米英でワクチン開発が成功した要因
米国や英国でコロナワクチン開発が成功した最大の理由は、ワクチン開発を「平時」対応ではなく、戦争や災害に準ずる「有事」対応として進めたことにある。またワクチンを「安全保障や外交に跨る公衆衛生の要」と認識し、平時から有事を想定して、レギュラトリーサイエンス[3] やmRNAワクチンの技術開発等へ投資が行われてきたこともコロナワクチン開発の成功に寄与している。
特に今回のような有事において、ワクチンは、外交や安全保障、経済・産業等、広く社会に影響を及ぼす。したがって、ワクチン政策を進める上では、保健医療に関連する専門家や省庁のみならず、省庁横断的に政策を議論する必要がある。しかし、日本では省庁間の連携が十分ではなく、省庁横断的に政策を検討できていないことが課題として挙げられる。
上記も含め、米英でワクチン開発が成功した理由は以下の項目が挙げられる。
- 「継続的な」感染症研究、ワクチン開発に資する基礎研究支援(米国では日本の20倍、英国では5倍の研究支援があった。)
- バイオテロを含む安全保障や外交の鍵としての位置づけ
- 国を挙げた開発支援(予算、人材、リソース)
- 大規模治験のインフラ、リソースの存在
- 直列並列で行うための予算、規制緩和
- データ、インフォメーションのシェアリング、透明化、見える化の徹底
- スタートアップ企業への支援と人材の層の厚さ、チャレンジと失敗許容の文化
■ワクチン研究開発及び政策上の課題と日本の現状
ワクチンは最も成功した医療技術の一つである。2021年8月現在、天然痘、ポリオ等、27の疾患がワクチンで予防できる感染症(VPD: Vaccine Preventable Deseases)とされ、ワクチンによって多くの人々の健康が支えられている。また現在、ワクチン開発は感染症の枠を超え、神経疾患や循環器疾患等の非感染性疾患、さらには老化や肥満症等、様々な領域で開発が進められている。その一方で、ワクチンだけでは感染のコントロールが困難な疾患があること、またワクチンによって感染が抑制されたが故に、人々にそのベネフィットが見えづらい(ありがたみがわかりにくい)といった、ワクチン政策特有の課題が存在する。
さらにワクチン研究開発においては、「抗原」「生体内デリバリー」「アジュバント[4]」の開発製造に向けた研究に加え、レギュラトリーサイエンスや医療経済学、倫理学等、多様な学問領域における知見の蓄積が必要となる。したがって、ワクチン研究開発においては、多様な領域の専門家を含む、大規模なワクチン研究開発チーム(コンソーシアム)が必要となる。日本でもこのような研究開発チームの構築が求められる。また研究環境の劣化・悪化が指摘されており、改善が急務となっている。さらには、ワクチンは外交や安全保障の観点から重要な「戦略物資」であるため、国産ワクチンの開発、製造を目指しつつも、原薬から製造ライン、流通に至るまで、グローバル視点を持ち諸外国との連携を進めていく必要がある。
このようにワクチン研究開発は、広範かつ複雑な課題を包括的に考えることが必要である。そのため、米国や英国等の諸外国では、司令塔機能を持った研究拠点が整備されているが、日本ではグローバルスケールの研究拠点が整備されていない状況にある。
こうした問題意識から、首相官邸「健康・医療政策推進本部 医薬品開発協議会」において、ワクチン研究開発を行うグローバルな研究拠点の必要性を提言した。その後2021年6月1日に「ワクチン開発・生産体制強化戦略」が閣議決定され、ワクチン開発・生産体制強化に向けて省庁横断的に施策が推進されることなった。また2021年6月15日には、日本医療政策機構(HGPI)からも「ライフコースアプローチに基づいた予防接種・ワクチン政策5つの視点と具体策」が公表されている。
■ポストコロナのワクチン研究開発を進めるために
ポストコロナのワクチン研究開発を進める上で、まず「医学部教育」が重要と考えている。感染症対策においては、「医薬品(Medicine)」のみならず、疫学調査や生物統計、保健機関等で実施される衛生活動等の「公衆衛生(Public Health)」、マスク、手洗いうがい、換気等の個人や地域レベルの健康保持、予防等の活動「衛生(Hygiene)」の3つが重要となる。しかし、医学部教育においては公衆衛生学や衛生学は軽視されがちであり、日本ではそれらの学問領域と合わせて、ワクチン関連領域(免疫学、微生物学等)を系統的に学べる場がない。ワクチン研究開発が幅広い知見を必要とすることを踏まえ、医学部でのワクチンに関する教育の重要性を再認識すべきだ。
また今後のワクチン開発においては、複雑な開発プロセスをシンプルかつ迅速に進めるイノベーションが必要となる。そこで我々は「ポストコロナ時代を見据えた新次元ワクチン研究基盤構築事業」を進めている。この事業では、これまでの研究成果を基に、ヒトの免疫応答の多様性をより高解像度で計測(プロファイリング)し、それらの免疫応答に対応した抗原システム、アジュバント、デリバリーシステムをモジュール化[5] する技術の開発を目指している。これによりパンデミックが発生した際に迅速かつ正確に免疫を誘導できるワクチンを開発することが期待できる。
さらに、ワクチン研究開発を考える上で、人々のワクチンの安全性に対する懸念「ワクチン忌避」についても考えていく必要がある。ワクチン忌避の要因は多岐に渡り、特に日本やフランスにおいてワクチン忌避感が強いことが明らかになっている。
特にワクチン忌避を議論する上では、まずは「正確な情報」が重要となる。科学的なエビデンスに基づく正確な情報を、特に子どもへの教育機会等を通じて伝えていく取り組みが必要である。
[1] 新型コロナウイルスワクチンの研究開発では、(1)ウイルスベクターワクチン、(2)mRNAワクチン、(3)DNA(プラスミド)ワクチン、(4)組換え蛋白質ワクチン、(5)組換えウイルス様粒子(VLP)ワクチン、(6)不活化ワクチンなどの従来手法から先端的なものまで、異なる免疫応答や科学技術を活用した多様なモダリティ(手段)のワクチンが登場した。
[2] ドラッグデリバリーシステム(DDS: Drug Delivery System)とは、薬物の効果を最大限に発揮させるために、必要最小限の薬物を必要な場所(臓器、組織等)に必要な時(タイミング及び期間)に供給することを目指す技術・システムのこと。
[3] レギュラトリーサイエンスとは、科学技術の成果を人と社会に役立てることを目的に、根拠に基づく的確な予測、評価、判断を行い、科学技術の成果を人と社会との調和の上で最も望ましい姿に調整するための科学。(引用:独立行政法人医薬品医療機器総合機構)
[4] アジュバント(Adjuvant)とは、ラテン語の「助ける」という意味をもつ ‘adjuvare’ という言葉を語源に持ち、ワクチンと一緒に投与して、その効果(免疫原性)を高めるために使用される物質のこと。あくまでもワクチンの効き目を高めるためのもので、アジュバントだけを投与してもワクチン効果は得られないが、抗原の一部の成分を精製して接種するワクチンは一般的に効き目が弱いため、アジュバントの添加が必要になる。さらに、昨今のワクチン研究・開発は、感染症という対象疾患の枠を超え、がん等の 非感染症疾患にまで広がりを見せている。しかし、こうした非感染症疾患のワクチンのターゲットは免疫反応が誘導できず治療効果が低いため、そのような場合でも強い免疫反応をおこすことができるアジュバントは、今後のワクチン等の研究・開発や治療における鍵になると期待されている。(参考文献:東京大学 医科学研究所 感染・免疫部門 ワクチン科学分野 石井健研究室)
[5] モジュール化とは、複雑な製品やシステムを設計等するときに、機能的に独立した各パーツ(モジュール)に要素分解すること。また設計・製造時に擦り合わせ作業をできるだけ少なくするために構成要素(部品)の規格化・標準化を進めること。
■プロフィール:
石井 健 氏(東京大学 医科学研究所 ワクチン科学分野 教授)
1993年横浜市立大学医学部卒業。3年半の臨床経験を経てアメリカ食品医薬品局(FDA: Food and Drug Administration)生物製品評価研究センター(CBER: Center for Biologics Evaluation and Research)にて7年間ワクチンの基礎研究、臨床試験審査を務める。2003年帰国し国立研究開発法人科学技術振興機構(JST: Japan Science and Technology Agency)ERATO審良自然免疫プロジェクトのグループリーダー、大阪大学・微生物病研究所・准教授を経て、2010年より2018年まで医薬基盤健康栄養研究所アジュバント開発プロジェクトリーダー、ワクチンアジュバント研究センター長、2010年より現在まで大阪大学・免疫学フロンテイア研究センター教授。2015年-2017年まで日本医療研究開発機構(AMED: Japan Agency for Medical Research and Development)に戦略推進部長として出向、2017年-2019年科学技術顧問を務める。2019年より現職。
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