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【HGPI政策コラム】(No. 72)―認知症プロジェクトより―「“脳の健康”から見る文化芸術の新たな可能性」

【HGPI政策コラム】(No. 72)―認知症プロジェクトより―「“脳の健康”から見る文化芸術の新たな可能性」

<POINTS>

  • 「脳の健康」は、認知・感情・社会参加・創造性などを含む多面的な概念であり、その中には文化や芸術に関わる要素も内在している。
  • 芸術は医療の外にあるものではなく、創造性や意味形成、他者との関係性といった脳機能の発揮を支える基盤的要素として位置づけられる。
  • 音楽、美術、演劇などの芸術活動は、創造的思考の促進、感情の調整や自己効力感の涵養、社会的関係の形成を通じて、脳機能およびウェルビーイングに複合的な影響を及ぼしうる。
  • 従来の医療的なアプローチは主として生物学的・心理的側面に対応してきたが、社会参加や自己表現といった領域には十分に対応しきれていない側面があり、芸術はそれらを補完し、さらには支援の範囲を拡張する実践として位置づけられる。
  • 国際的には、芸術と健康やウェルビーイングの関係に関するエビデンスの蓄積や政策的展開が進む一方で、医療化への懸念や実装上の課題も指摘されており、日本においても制度的な位置づけや導入のあり方について検討を深める必要がある。

はじめに

前回の認知症プロジェクトによるコラムでは、「脳の健康(Brain Health)」をめぐる国際的な議論の動向と、その背景にある「脳資本(Brain Capital)」の概念について紹介しました。脳の健は、単なる疾患の有無ではなく、個人が生涯を通じて個人が本来の可能性を発揮し社会に貢献できる状態として再定義されつつあり、社会や経済の持続可能性を支える基盤として位置づけられています。また、認知症領域においてこの概念を導入することは、スティグマの軽減や主体的な健康行動の促進につながる一方で、個別疾患に対する診断・治療・研究の議論が希薄化するリスクも指摘されています。そのため、今後の政策推進において、「脳の健康」という包括的視点と個別疾患対策とを両輪で捉え、バランスよく議論を進めていく重要性について言及しました。詳細は、本コラム末尾の関連記事よりご覧ください。

本稿ではその続きとして、この議論の中に既に内在している「芸術(Arts)」との関係に目を向け、「脳の健康」における芸術の役割について考えてみます。芸術と聞くと、医療とは別ものというイメージが先行する人が多いのではないでしょうか。しかし、前回のコラムで取り上げた「脳の健康」を構成する要素、すなわち、認知、感情、社会的参加、創造性を丁寧に辿ると、そこに芸術をあわせて議論する必要性を見い出すことができます。本稿では、医療と芸術の関係を2つの別領域としてではなく、一つのつながりとして捉えて検討していきます。

脳の健康の文脈に内在する芸術的要素

前回のコラムで示したとおり、WHOは脳の健康を「認知、感覚、社会・情動、行動、運動といった各領域にわたる脳機能の状態」として定義しています。これは単なる疾患の有無ではなく、個人が生涯を通じて本来のポテンシャルを発揮できる状態であるかどうかを重視する考え方です。

この定義が示しているのは、脳の健康が純粋に医学的・生物学的な概念に収まらないということです。社会・情動という要素が定義に含まれている以上、脳の健康は人間関係、感情の質、意味の形成にまで広がっています。脳資本の議論(Ayadi et al., 2023)においても、Brain Capital Driversの一つとして「文化的環境(Cultural Environment)」が明示的に位置づけられており、文化・芸術へのアクセスが脳の発達とレジリエンスに寄与することが示されています。すなわち、芸術は脳の健康の議論に後から加えられた要素ではなく、その定義や構成の中にもともと組み込まれているものといえます。以下では、脳の健康に関わる三つの要素について、芸術がどのような役割を果たしうるのか整理します。

  • 創造性と革新的思考にかかわる芸術的要素
    AI時代において定形的な作業が自動化される中、創造的思考や複雑な問題解決の能力はより一層重要性を増しています。音楽のリズムが運動系と感情系に作用する、視覚芸術が注意と記憶のネットワークを活性化するなど、芸術体験や芸術活動は神経科学的にも脳機能に影響を与えることが分かってきています。これらの芸術的実践は、創造性や革新的思考を育む経験環境として機能しうるものです。

  • 感情の調節と意味の形成における芸術の役割
    脳の健康の重要な側面として、感情の制御、ストレスへの対処、自己効力感の維持が挙げられます。脳資本の議論において、自分が自らの経験を制御しているという感覚「locus of control(認識論的制御感)」は、うつや不安との関連から重要な要素とされています(Ayadi et al., 2023)。芸術体験は、言語化しにくい感情に「形」を与え、個人が自らの経験を処理・意味づけする手段として機能することが指摘されています(Fancourt & Finn, 2019)。また、芸術的創造の行為は、「自分で何かを作り出すことができる」という主体性の感覚と深く結びついています。

  • 社会参加と関係性を支える芸術の可能性
    Brain Capital Driversにおいて、社会的条件(Social Conditions)は重要な次元の一つであり、信頼、社会的サポート、社会的結合が脳の健康を維持・強化するブースターとして機能するとされています(Ayadi et al., 2023)。合唱、演劇、コミュニティアートなどの共同的芸術活動は、この社会的参加の一形態として機能します。そのため、芸術活動に参加すること自体が、脳に対して保護的に働く可能性が考えられます。

以上の三要素は、創造性・認知といった脳の働きから感情・意味づけ、さらに社会との関わりへと連続的につながっています。そして、その延長線上に、自己表現や文化的参加といった芸術固有の領域が位置づけられます。つまり、芸術は脳の健康の外側にある特別なものではなく、その構成要素の自然な広がりとして捉えることができます。

医療的アプローチを広げる芸術の可能性

現在の保健・医療は、主に生物学的な機能や心理・情動の側面に対応する形で発展してきました。診断・投薬・リハビリテーションといった枠組みは、多くの場面で重要な役割を果たしています。一方で、社会参加や創造性、自己表現といった領域については、従来の医療的アプローチだけでは十分に扱いきれない場合もあります。

そこで注目されるのが、芸術の持つ可能性です。芸術は、医療的アプローチを補い、またその可能性を広げる実践として位置付けることができます。これは、脳の健康のみならず、慢性疾患の管理、高齢者の孤立、認知症の共生と予防、メンタルヘルスの回復においても有用であると考えられます。芸術を、従来の保健医療システムの中で扱うことが難しい部分に対して取り入れることで、人々に対するより多面的な支援が可能となります。

国際的な動向

世界では、保健・医療における芸術の役割に関する議論や政策的位置づけが着実に進んできています。2019年にWHO欧州事務局が発表した包括的レビュー(Fancourt & Finn, 2019)は、予防・治療・管理の各段階における芸術介入のエビデンスを体系的に整理したものとして広く参照されています。また、英国や北欧諸国では「社会的処方(Social Prescribing)」の枠組みの中で、医療従事者が芸術活動を処方対象として扱う実践が広がりつつあります。一方で、こうした取り組みには「芸術の医療化・手段化」への懸念や、「処方」という枠組みそのものへの違和感、さらには人材や財源といった実践上の課題も指摘されています。それでもなお、国際的には芸術が健康に与える影響を肯定的にとらえ、研究の蓄積と政策的な展開が進められています。こうした動向を踏まえ、日本においても、医療や健康の文脈おける芸術の価値や役割について、より活性な議論が求められていると考えます。

おわりに

脳の健康の議論は、認知機能の保全や疾患の予防にとどまらず、感情・社会・表現というより広い領域を包含しています。その広がりを丁寧に辿ると、芸術は医療の外側にある別の何かではなく、脳の健康を構成する連続体の中に自然な形で位置づけられます。医療と芸術を「異なる世界」として捉えるのではなく、人間の心身と生活を支える一つの連続体として理解することが、今後の政策と実践の出発点になると考えます。次回のコラムでは、医療と芸術の接続が制度的にどこまで進んでいるのか、日本においてこの議論をどのように展開すべきかについて、世界における健康やウェルビーイングにおける芸術の役割に関する議論と制度的位置づけを整理しながら検討します。

 

【参考文献】

 

【執筆者のご紹介】

森口 奈菜(日本医療政策機構 シニアアソシエイト)

 

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