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【開催報告】HGPIセミナー特別編「ポストパンデミック時代の公衆衛生と政策形成:科学と社会をつなぐための課題と展望 ~グローバルヘルス・セキュリティの視点から~」(2025年9月3日)

【開催報告】HGPIセミナー特別編「ポストパンデミック時代の公衆衛生と政策形成:科学と社会をつなぐための課題と展望 ~グローバルヘルス・セキュリティの視点から~」(2025年9月3日)

日本医療政策機構は、元ホワイトハウスCOVID-19対応コーディネーターのアシシュ・K・ジャー氏の来日を機に、個人賛助会員ならびにヘルス・セキュリティに関連する分野で活動する方々を対象としたクローズドの会合「HGPIセミナー特別編」を開催いたしました。ジャー氏は、エボラ出血熱(エボラウイルス病)からCOVID-19まで、米国および国際的に感染症危機対応を主導し、科学的エビデンスに基づく政策形成の推進や、公平で質の高い医療体制の実現に尽力してきた世界的リーダーです。

今回は、ジャー氏が主導する「バイオレーダー(BioRadar)」構想をはじめ、将来のグローバルヘルス・セキュリティ強化に向けた国際協力の展望について、ジャー氏にご講演いただきました。続いて行われたパネルディスカッションでは、同構想を踏まえ、米国と日本の専門家が、国際協力の課題、地政学的変化に伴う影響、そして日米の果たすべき役割について、参加者とともに議論を深めました。


<POINTS>

  • 現代における科学の進歩や、グローバル化に伴う生物学的脅威の拡大に対応するため、新しいバイオサーベイランスシステムの構築の必要性が指摘されている。
  • 現代の生物学的脅威の拡大に対し、「バイオレーダー構想」は、1)未知の生物学的脅威の検出、2)既知の感染症拡大の早期発見、3)個人情報への配慮を可能とする、有望な次世代バイオサーベイランスシステムである。
  • 地政学的変化により、米国依存のグローバルヘルスや公衆衛生に関する安全保障体制が揺らぐ中、各国のレジリエンスを高めつつ、新たな国際協力体制の再構築が不可欠である。
  • 日本でも革新的バイオサーベイランス技術の開発に成功しているが、その導入に向け、市民の理解不足や、産官学の各セクターの役割分担が依然として不明瞭であることが課題である。
  • 日本のグローバルヘルスへの関与は、「ルールに基づく国際秩序維持」と「グローバルヘルスガバナンス強化」に貢献している。今後、日米協力の深化も含め、アジア太平洋地域のグローバルヘルス・セキュリティの強化が期待される。

 

■現代における新しいバイオサーベイランスシステムの必要性

現代において、新たなバイオサーベイランスの導入は、「生物学的脅威の増大」と「既存バイオサーベイランスシステムの限界」に対応するために極めて重要である。過去の「化学の黄金時代」(1880年代~1890年代)がプラスチックや医薬品とともに化学兵器を生み出し、「物理学の黄金時代」(1920年代~1930年代)が原子力や診断テストとともに核兵器をもたらした。同様に、過去15年間の「生物学の黄金時代」は遺伝子編集や合成生物学といった優れた進歩をもたらす一方で、新たな生物兵器の登場も示唆している。実際に、米国の情報機関は、国家および非国家主体が生物兵器の開発に取り組んでいると報告しており、今後5~10年の間にその使用が初めて現実化する可能性を警告している。

グローバル化に伴う人間と動物の接触機会の増加や人の移動の活発化、さらに気候変動などの要因により、現代は「パンデミックの時代」となっている。世界的な新規感染症の流行が懸念される一方で、既存のバイオサーベイランスは、検知対象が事前に特定されていなければ生物学的危機を発見できないという制約を抱えている。この限界はCOVID-19パンデミックで顕在化した。当時のシステムは「何を探すか」を前提としていたため、新興ウイルスの広域的な伝播を早期に検知できず、結果として感染拡大への迅速な対応が阻まれた。
このように、科学の進歩やグローバル化による生物学的脅威の拡大に直面する現代において、新しいバイオサーベイランスシステムの構築は急務である。


■新なバイオサーベイランスシステムとしての「バイオレーダー構想」

このような背景を踏まえ、ジャー氏らは「バイオレーダー(BioRadar)」構想を提唱している。従来のサーベイランスシステムが、特定の病原体をあらかじめ設定して探知する仕組みであったのに対し、バイオレーダーは病原体の特定を前提とせず、未知の脅威も検知可能である点が特徴である。
具体的に、バイオレーダーは、空のレーダーが異常を探知する仕組みに倣い、特定の日における都市の「生物学的プロファイル」を作成する。このプロファイルは、下水や空気サンプルなどの環境データ、臨床データ、薬局での購入データ、さらにはソーシャルメディアや検索履歴データなど、匿名の複数の情報源から構成される。AIモデルによって「正常状態」の基準を確立し、そこからの逸脱を「異常」として検出することで、未知の脅威を早期に発見し、調査へとつなげることができる。
さらに、この構想は季節性インフルエンザなど既知の感染症アウトブレイクも、従来より早期に検出可能にする。また、収集されるデータは完全に匿名化・非特定化されており、プライバシーに配慮した設計となっている。そのため、個人への過度な介入を避けながら、生物学的危機を早期に察知し被害を最小化することが期待される。
一方、実施上の課題も存在する。システムの確立と維持には莫大なコストが必要であり、個々の試験運用だけでも18か月で300万~1000万ドルを要するとされる。国家規模での展開には多額の政府資金が不可欠である。さらに、このようなシステムを実効的に機能させるためには、公衆衛生部門と国防部門の緊密な協力と補完的関係の構築が求められる。


■地政学的変化に対応したヘルス・セキュリティを守るための未来の国際協力の在り方

グローバルヘルス・セキュリティを巡る国際協力の在り方は、現在の地政学的変化により再定義を迫られている。第二次世界大戦後の国際秩序は転換点を迎えており、米国は国連や世界保健機関(WHO: World Health Organization)といった多国間システムから撤退し、時にはその弱体化に加担している。アメリカ合衆国国際開発庁(USAID: United States Agency for International Development)の海外事務所の閉鎖や、疾病対策センター(CDC: Centers for Disease Control and Prevention)職員の撤退はその一例であり、国際的な公衆衛生サーベイランスに深刻な影響を及ぼしている。また、インド・ロシア・中国の首脳会合に象徴される新たなパートナーシップの台頭も、地政学環境の大きな変化を示している。

こうした変化は、米国のプレゼンスに依存してきた従来のグローバルヘルス・サーベイランスシステムが十分に機能しなくなっていることを意味する。これは重大なリスクである一方、平時・緊急時を問わず、グローバルヘルス・セキュリティの国際的枠組みを効率的に再設計する契機ともなり得る。さらに、低中所得国、特にアフリカ諸国では、米国からの開発資金への過度な依存を減らし、自国予算での医療支出を増やす必要性が認識され始めている。

このような背景から、各国の生物学的脅威へのレジリエンスを高めつつ、新たなグローバルヘルス・セキュリティシステムの構築が不可欠である。その実現に向け、バイオレーダーをはじめとする新技術やバイオサーベイランスシステムは有力な手段となる。これらは感染症発生のたびに専門家を国際派遣する必要性を減らし、世界全体でのサーベイランスにかかる負担をより公平かつ効率的に分担することを可能にする。そして、こうした技術やシステムの開発・運用には、同盟国・友好国・国際機関同士の協働が不可欠であり、知見と情報を共有しながら各地で同様の仕組みを構築していくことが望まれる。


■COVID-19で顕在化した日本の生物学的脅威対応への課題と今後の期待

日本はCOVID-19パンデミックにおいて、高齢化社会でありながら人口当たり死亡率を米国の約6分の1に抑えることに成功した。一方で、情報基盤の脆弱さが明らかになった。重要な疫学データは依然としてデジタル化が進んでいなかった上に、中央政府の感染予測も全国レベルにとどまり、その更新頻度も十分ではなかった。
この状況を受け、神奈川県では下水中のウイルス遺伝子を活用した感染予測モデルの実証研究が進められた。産官学の連携によって開発された高感度廃水PCR検査は、人口100万人あたり新規感染者が10人未満でも検出可能で、当時の米国技術の10〜100倍の精度を実現した。さらに、費用対効果の面でも、従来の臨床サーベイランスより優れていることが明らかになった。

こうした有効性が示されているにもかかわらず、一般的に中央政府及び自治体は、下水サーベイランスの導入に消極的である。その背景には、病原体の存在といった「ネガティブ情報」の発信を避ける傾向や、安全性を示す結果のみを重視する政治的意向がある。こうした姿勢は迅速な生物学的脅威対応を妨げる重大な障害となっており、今後は効果的なサーベイランス技術に対する政府と市民双方の理解促進が強く求められる。


■日本のグローバルヘルスへの関与の意義と、今後の日米協力の展望

日本のグローバルヘルスへの関与には、大きく二つの意義がある。第一に、日本の国際規範に基づく取組は「ルールに基づく国際秩序」の維持に資する点である。特にCOVID-19パンデミック時には、一部の国が戦略的なワクチン外交に注力したのに対し、日本は人間の安全保障やSDGsといった国際規範に沿った支援を行い、国際秩序の安定に貢献した。
第二に、グローバルヘルスガバナンスの強化である。グローバルヘルスガバナンスは、グローバル、地域、国家、ローカルといった多層的な構造を持つ。地政学的変化によりグローバルレベルでの協力が難しくなる中、日本がアジアにおける地域的協力を推進することは、この多層構造を補完し、全体の強靭性を高める。

現在、日米協力は狭義の安全保障を超え、経済・食料・ヘルス・セキュリティへと拡大している。特にヘルス・セキュリティの分野では、日本では「国立健康危機管理研究機構(Japan Institute for Health Security)」の設立が進み、日米の連携基盤が整いつつある。今後、こうした協力を一層強化することで、アジア太平洋地域におけるヘルス・セキュリティの向上が期待される。

現代の生物学的脅威は一国のみで対応できるものではない。バイオレーダー構想のような革新的アプローチを現実のものとするためには、国境を越えた対話と具体的な協力が不可欠であり、日本、米国、そして世界のパートナー諸国が連携する協働体制の構築が求められる。

【開催概要】

  • 日時:2025年9月3日(水)10:00-11:30
  • 講演者:アシシュ・K・ジャー氏(ブラウン大学公衆衛生大学院 院長/元ホワイトハウスCOVID-19対応コーディネーター)
  • 形式:対面のみ
  • 会場:Global Business Hub Tokyo North & Central Field
    〒100-0004 東京都千代田区大手1-9-2 大手町フィナンシャルシティ グランキューブ3階
  • 言語:英語のみ(同時通訳なし)
  • 共催:国際文化会館


 ■登壇者プロフィール

アシシュ・K・ジャー(ブラウン大学公衆衛生学部 学部長/元ホワイトハウスCOVID-19対応コーディネーター)
アシシュ・K・ジャー博士は、ブラウン大学公衆衛生学部の学部長であり、2022年にホワイトハウスCOVID-19対応コーディネーターを務めた公衆衛生の世界的リーダーである。パンデミック対策やワクチン開発、検査体制強化などで実績を上げ、科学的エビデンスに基づく政策提言で知られている。ハーバード大学で教授やグローバルヘルス研究所所長を歴任し、約300の研究論文を発表している。2013年に米国医学アカデミー会員に選出されている。
 
尾身 茂(公益財団法人結核予防会 代表理事)
1978年自治医科大学卒業。1999年WHO西太平洋地域事務局長。2009年よりWHO執行理事。2014年、独立行政法人地域医療機能推進機構(JCHO)理事長。2015年9月、NPO法人「全世代」を設立。2020年2月、新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長、2021年4月、新型インフルエンザ等対策推進会議基本的対処方針分科会会長。2022年4月より公益財団法人結核予防会(JATA)代表理事、JCHO名誉理事長。同年6月よりJATA理事長現職。

ニッキ・ロマニック(ブラウン大学公衆衛生大学院 グローバルヘルス・セキュリティ 上級特別研究員/元ホワイトハウス・パンデミック対策準備・対応政策室 副室長)
ホワイトハウスのパンデミック対策準備・対応政策室において、大統領特別補佐官、副室長兼首席補佐官を務めた。着任にあたり初代オフィスの立ち上げと人材採用を主導し、感染症の流行、パンデミック、その他の生物学的脅威への国家的な備えと対応を強化するための主要な施策を推進した。

 ステファニー・プサキ(ブラウン大学公衆衛生大学院 グローバルヘルス・セキュリティ 上級特別研究員/元ホワイトハウス グローバルヘルス・セキュリティ 米国調整官(初代))
ホワイトハウスにおける初代グローバルヘルス・セキュリティ米国調整官、および米国国家安全保障会議のスタッフを務め、パンデミックへの備えからユニバーサル・ヘルス・カバレッジに至るまで幅広い課題を統括した。米国政府に加わる前は、人口・家族保健分野の研究者として活動した。ジョンズ・ホプキンス大学 ブルームバーグ公衆衛生大学院にて博士号を取得している。

詫摩 佳代(慶應義塾大学 法学部 教授)
2010年東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程単位取得退学。博士(学術)。東京都立大学法学部教授、フランス国立社会科学高等研究院(EHESS)訪問
研究員などを経て、2024 年 4 月より慶應義塾大学法学部教授。著書に『人類と病―国際政治から見る感染症と健康格差』(中央公論新社、2020 年)、『グローバル感染症の行方―分断が進む世界で重層化するヘルス・ガバナンス』(明石書店、2024 年)など。

ユウ ヘイキヨウ(早稲田大学人間科学学術院 教授/神奈川県立保健福祉大学 ヘルスイノベーション研究科)
2023年より早稲田大学人間科学学術院にて教授を務め、神奈川県立保健福祉大学の教授を兼任。日本で医学博士号を取得後、米国ジョンズ・ホプキンス大学にて医療経済学の博士号を取得。スタンフォード大学、米国疾病管理予防センター(CDC: Centers for Disease Control and Prevention)、ロチェスター大学、カリフォルニア大学デービス校での勤務を経て現職に至る。研究分野は、大規模感染症に対する公衆衛生的対策や、ワクチン接種・健康的な食生活・身体活動といった予防行動の分析である。

乗竹 亮治(日本医療政策機構 代表理事・事務局長)
日本医療政策機構設立初期の2005年に参画。その後、大学院留学を経て、米国の医療人道支援財団にて勤務。ベトナム、フィリピンなどアジア太平洋地域で、官民連携プロジェクトや米海軍による軍民連携の被災地人道支援などに従事。自衛艦「くにさき」に乗艦勤務。政策研究大学院大学客員研究員(2016-2020)。東京都「超高齢社会における東京のあり方懇談会」委員(2018)。世界認知症審議会(WDC: World Dementia Council)委員などを務める。慶應義塾大学総合政策学部卒業、オランダ・アムステルダム大学医療人類学修士。2022年度第32回武見奨励賞受賞。2016年から事務局長、2024年から代表理事に就任。

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