【開催報告】第137回HGPIセミナー「食・健康・環境を感染症から守るー獣医疫学の挑戦と展望ー」(2025年8月27日)
今回のHGPIセミナーでは、国際獣疫事務局(WOAH: World Organisation for Animal Health)アジア太平洋地域食の安全コラボレーティングセンターコンソーシアム機関代表でもある酪農学園大学の蒔田浩平先生にご登壇いただき、人獣共通感染症の現状や、獣医学及び獣医疫学の課題や今後の展望について、国内外のさまざまな事例や研究を用いながらお話いただきました。
<POINTS>
- 人と動物は切り離せない存在であり、人にも動物にも感染する人獣共通感染症への対策にはワンヘルスの概念を踏まえたサーベイランスやデータの応用が不可欠である。
- 獣医疫学は、人と動物の病気について感染状況やリスク因子などを見える化し、病気の将来予測、対策の費用対効果を示すことで、科学的な意思決定や実効性のある対策に貢献する。
- 獣医疫学の分野では、実務や研究を担う人材育成が課題である。中央省庁や地方自治体などで獣医疫学を応用できる専門人材を国際水準で育成する必要がある。ワンヘルスの視点を活かした活動や、獣医疫学教育の充実、官民連携の強化が求められている。
■ 動物の感染症が人と環境にもたらすもの
人と動物、環境は密接に関わり、多くの人の感染症は人獣共通である。実際、感染症病原体の61%、新興感染症の75%が人獣共通であり、H1N1インフルエンザやエボラ、SARS-CoV-2など、特にウイルスがパンデミックを起こしやすい。重症熱性血小板減少症候群(SFTS: Severe Fever with Thrombocytopenia Syndrome)のように複数の感染経路を持つ重篤な人獣共通感染症も存在する。
薬剤耐性菌も「サイレントパンデミック」として拡大が懸念されており、2014年にイギリスでこのまま対策を取らなければ2050年には耐性菌感染による人の死亡者ががんを超えるという予測が報告されている。第二次世界大戦以降、世界では抗菌薬に動物の発育促進が認められた研究を契機に抗菌薬の使用が拡大した。その後、薬剤耐性菌は畜産業で蔓延し、1960年代にはイギリスで多剤耐性菌によるヒトの死亡例が報告されている。そこで、1969年に英国政府の調査委員会が議会に提出した報告書であるスワン・レポートを契機に「人の重要な抗菌薬を動物に成長促進目的で使ってはならない」という原則が国際標準となった。
家畜伝染病は食や経済など日々の生活にも直結する。近年でも、鳥インフルエンザでの鶏の大量死や処分による卵不足、口蹄疫での29万頭の殺処分などが記憶に残る。家畜伝染病が発生した場合、日本では農林水産省が水際対策やまん延防止措置を講じ、殺処分時には国が補償する。しかし、動物の殺処分などに関わった獣医師や関係者には心理的負担を抱えることも多い。こうした事態を繰り返さないための取り組みが強く求められている。
そこで重要になる方向性の一つが「ワンヘルス」である。ワンヘルスは人・動物・環境の健康を一体として捉える考え方であり、学際的・官民連携のアプローチが不可欠である。日本でも動物由来薬剤耐性菌モニタリング(JVARM: Japanese Veterinary Antimicrobial Resistance Monitoring System)、院内感染対策サーベイランス(JANIS: Japan Nosocomial Infections Surveillance)などの連携により「薬剤耐性ワンヘルス動向調査年次報告書」が作成され、薬剤耐性菌に関する情報共有体制が整備されつつあり、今後の発展が期待される。
■ 獣医疫学の役割
ワンヘルスの実現に向けて、獣医疫学が果たすべき役割は大きい。獣医疫学は、人と動物の病気を「見える化」し、感染状況・リスク因子・感染様式を把握して将来予測や費用対効果を評価し、疾病制御に向けた対策立案や検証を可能にする学問である。獣医疫学のうち記述疫学では、感染の拡大経路を地図や数値で示すことができる。例えば2018年に岐阜県で発生した豚熱は、当初は野生イノシシ同士で感染拡大したが、翌年にはイノシシによる拡大のペースを大きく超えて埼玉や群馬に広がり、人や車両による伝播の可能性が示された。また、理論疫学は、養豚場での豚熱対策へのワクチンの効果を定量的に検証することなどに用いられている。また牛の乳房炎や牛伝染性リンパ腫などの病気について、薬剤やワクチン、衛生対策などの経営上の効果を定量化することで、生産者により経済的な選択肢を提示できる。こうした研究は家畜衛生経済学とも呼ばれ、高病原性鳥インフルエンザ発生時の補償額・被害額の試算などにも応用されている。
さらに、薬剤耐性菌や狂犬病といった課題に対しては、国際動向や文化人類学的視点を踏まえたリスク評価を実施し、文化的にかつ経済的に許容できる疾病制御の在り方を模索している。具体的には、ベトナムでの狂犬病ワクチン補助とワクチン接種率・狂犬病発生率のギャップに関する社会経済的要因の分析、野生動物で蔓延する狂犬病の維持宿主が野生動物自身か犬かを突き止める遺伝子解析なども進められている。これらの活動には疫学とともに社会経済学、マネジメント(規制科学、ステークホルダー調整、対策のパッケージング、ロジスティックスなど)が不可欠であり、その基盤として、疫学的エビデンスを基にした良いコミュニケーションとビジョンの共有が求められる。
■ 獣医疫学が抱える課題と解決策
獣医疫学は人獣共通感染症や家畜疾病対策に不可欠であり、日本でもさらなる人材育成と教育環境の充実が必要である。中央省庁及び独立行政法人には獣医疫学の部署が設けられ高い技術力を有する一方で、地方自治体や民間組織、さらには獣医科大学においても獣医疫学者の雇用体制はやや限定的であり、安定的な人材育成基盤の確立には至っていない。また、獣医疫学実習を実施する大学は約半数に留まり、国際的に求められるコンピテンシー教育(知識・態度・スキル・素養)の要件を満たすにも一層の改善が必要である。
獣医疫学を用いて疫学的エビデンスを作出することができても、特に発展途上国では国の予算が十分でなく、また保健行政と家畜衛生行政の連携不足で人獣共通感染症が制御されないまま放置されていることが多い。こうした課題に対応するため、官民連携の実践的研究が進められている。現在タンザニアでは、ブルセラ症や人獣共通結核などの顧みられない人獣共通感染症(NZDs: Neglected Zoonotic Diseases)を対象に、医師、獣医師、教育セクターが混合チームを組み、参加型システムダイナミクスやVR教育を導入し、地域住民と共に対策を設計する共同デザイン型の取り組みが始まっている。このプロジェクトでは、社会経済学や人類生態学を取り入れた調査を行い、より多様なエビデンスに基づく疾病制圧の計画も議論している。
日本では教育の面で改革が始まっている。獣医疫学実習のコアカリキュラム策定や卒後研修教材の整備が進められ、国際学会やシンポジウムを通じて若手人材育成と国際ネットワーク形成が推進されている。各獣医科大学などが地域の拠点となり、社会実装と教育の両面から活動を強化することで、獣医疫学の発展、ひいてはより効果的な感染症対策への貢献が期待される。
【開催概要】
- 登壇者:
蒔田 浩平 氏(酪農学園大学獣医学群・大学院獣医学研究科 獣医疫学教授/酪農学園大学国際獣疫事務局食の安全コラボレーティングセンター長) - 日時:2025年8月27日(水)18:00-19:15
- 形式:オンライン(Zoomウェビナー)
- 言語:日本語
- 参加費:無料
■登壇者プロフィール
蒔田 浩平(酪農学園大学獣医学群・大学院獣医学研究科 獣医疫学教授/酪農学園大学国際獣疫事務局食の安全コラボレーティングセンター長)
1971年福井県生まれ。1995年日本獣医畜産大学獣医学科卒業。2009年エジンバラ大学感染症センター博士課程修了。1995年埼玉県庁入庁。1998年埼玉県庁派遣国際協力事業団(JICA)青年海外協力隊ネパール王国。2008年国際農業研究評議グループ(CGIAR)国際家畜研究所(ILRI)Safe Food Fair Food projectポスドク。2010年酪農学園大学獣医疫学准教授。2014年国際獣疫事務局(WOAH)食の安全コラボレーティングセンター長。2018年酪農学園大学・大学院教授。専門は獣医疫学。日本および東南アジア、南アジア、サハラ以南アフリカの動物の感染症・非感染症、人獣共通感染症の疫学、ワンヘルス研究に従事。
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