【開催報告】第89回HGPIセミナー「『もうこれ以上治せない』となる前に ―AMRに立ち向かうために英国が取り組む新規抗菌薬の研究開発へのインセンティブとはー」(2020年10月19日)
今回のHGPIセミナーでは、4名のスピーカーをお迎えして、薬剤耐性(AMR: Antimicrobial Resistance)対策において、国際連携の必要性を含む英国の展望をお話しいただきました。また、抗菌薬の研究開発促進を目的としたプル型インセンティブについても議論していただきました。
なお本セミナーは新型コロナウイルス感染症(COVID-19: Coronavirus Disease 2019)対策のため、オンラインにて開催いたしました。
<講演のポイント>
- 薬剤耐性(AMR: Antimicrobial Resistance)による年間死亡者数は、2050年には1,000万人にまで上昇すると予測されており、AMRは世界的な問題である。
- 新規抗菌薬に対する大きな需要が社会にあるにもかかわらず、既存の市場構造では抗菌薬の研究開発促進や安定供給に苦戦してきた。
- 抗菌薬市場の構造的な課題を解決するために、英国は2022年までに2種類の新規抗菌薬開発を目指す「プル型インセンティブ」のパイロットプログラムを実施している。
- 抗菌薬市場の構造的な課題を解決し、AMRに対処するためには、世界各国が英国同様、「プル型インセンティブ」に準じた取り組みの推進が重要である。
- 英国では、抗菌薬の公共財としての価値と既存の市場価値との差異に対処するため、革新的な価値評価フレームワークを開発している。
■ Sally Davies氏 “AMRのない世界への道のり、そのためのプル型インセンティブの役割”
抗菌薬の存在が、多くの感染症を治療可能にした。結核、敗血症、そしてコロナウイルス感染症(COVID-19: Coronavirus Disease 2019)に起因する細菌性肺炎のような二次感染症までもが、現在は抗菌薬で治療されている。また、がん治療、帝王切開、股関節手術、臓器移植等の術中や術後の感染症予防および治療にも抗菌薬は必要である。しかし、抗菌薬の消費量が増えている一方で、新しい抗菌薬が作られることは少なくなっている。社会は、もはや感染症に効果的な抗菌薬が存在しないという現実に直面しつつあり、この問題の存在感はますます大きくなっている。
AMRはCOVID-19と同じく、今まさに起こっている問題である。世界中の国々がCOVID-19による未曾有のパンデミックの渦中におり、私たちは未だ治療できないウイルスの影響を目の当たりにしている。まさにこのCOVID-19の状況こそが、もし私たちがAMR対策に取り組まなかった場合、生活や経済に何が起こるかをありありと示している。しかしながら、革新的な取り組みも同時に進んでいる。世界保健機関(WHO: World Health Organization)等によるCOVAXファシリティは、世界中の多くの国々を巻き込み、COVID-19のワクチンの調達と公平な分配を目指している。COVID-19のワクチンと同様に、抗菌薬も適切な価格で、公平かつ迅速に世界中に提供する努力が求められている。
AMR対策が世界で成功を収めるかどうかは、各国が国際的な協力体制のもとでこの問題に取り組めるかどうか次第である。日本は、アクションプランの策定と実施を通じて、AMR対策におけるリーダーシップを発揮し、G7やG20に際してもAMRに関する議論を積極的に展開し、世界に次の行動を迫った。引き続き日本がAMR対策におけるリーダーシップを発揮し、抗菌薬の適正使用や安定供給を推進する取り組みにも国際的に貢献していくことが期待される。
新たな抗菌薬の研究開発を促進し、抗菌薬を上市するためには、全く新しい仕組みが必要である。具体的には、抗菌薬が持続的に使用かつ供給される「プル型インセンティブ」という仕組みの導入である。英国では、2種類の抗菌薬に対して「プル型インセンティブ」を導入し、この取り組みをリードしてきた。しかしながら、英国の市場は世界の医薬品市場のわずか3%に過ぎない。つまり、この取り組みの成功は、日本を含めた世界各国がそれぞれの国に適した革新的なインセンティブの仕組みを導入できるかどうかにかかっているのだ。
■ Louise Norton-Smith氏 “AMR対策における国際協調の必要性”
AMRと無縁でいられる場所はどこにもない。現在、世界中で毎年約70万人がAMR感染症で亡くなっており、日本でも毎年約8,000人がAMR感染症で命を落としていると推定されている。また、がん患者が感染症に罹患しやすいことを考慮すると、日本や英国のような高所得国では、AMRによって、特にがん治療の手術、放射線治療、免疫療法が困難となると考えられる。このまま何もAMR対策を講じなければ、AMRによる死亡者数は2050年までに毎年1,000万人にまで膨らむと推定されており、これは、現在のがんによる毎年の死亡者数よりも多いことになる。
しかし、今世紀に入ってからも、新規抗菌薬は開発されていない。現在の抗菌薬市場では、抗菌薬の研究開発や製造に多額の費用が必要な一方で、比較的安価な薬価が設定されているがゆえにその収益性は低く抑えられている。そのため、製薬会社は抗菌薬の研究開発に対する投資を引き揚げつつあり、撤退や倒産に追い込まれてさえいる。これは患者を含む国民や社会、ひいては経済にとっても望ましい状況ではない。未だに何百万人もの人々が、要となる抗菌薬を手にすることができず、命を落としている。治療の失敗ではなく、治療の選択肢がないことで失われる命があり、これは抗菌薬のパイプラインが不足していることが影響しているのだ。世界中で患者の抗菌薬へのアクセスが決して損なわれないように、私たちはこの「市場の失敗」ともいうべき抗菌薬市場の構造的な課題を解決するよう努めなければならない。
政策立案者としては、患者のためにより多くの抗菌薬を上市し、その抗菌薬を持続的に市場に行き渡らせることが最終的な目標である。社会や医療制度にとって、抗菌薬は既存の価格設定や支払い制度によって規定されている以上の価値を秘めている。まさにこの点こそが、「市場の失敗」を克服し、むしろ「プル型インセンティブ」という名の政府の介入を成功に導く部分である。実際に、英国国民保健サービスでは、革新的な抗菌薬のアクセス改善のために、プル型インセンティブに関する契約を2種類募集している。この契約は、上市された抗菌薬について、製薬会社に対して報償を支払うというものであり、この仕組みを通じて約30年ぶりとなる新規抗菌薬を何とか英国の患者に提供しようとしている。
しかし、英国のみではAMR対策を成功させることはできない。各国政府がAMRという課題の緊急性と規模を認識し、国際的な協力体制のもとでAMR対策に取り組まなければならない。2016年のG7伊勢志摩サミットにおける「G7伊勢志摩首脳宣言」では、AMRに関する研究開発の促進に資する新たなインセンティブを検討することで、AMRの負の影響を緩和することを約束し、国際社会にさらなる行動をとるよう呼びかけた。また、昨年2019年のG20大阪サミットでも同様の取り組みをより様々な国と共に進めていくことが再度確認された。AMR対策において、私たちは国内的にも国際的にもリーダーシップを発揮するとともに、責任を引き受けなければならないことを肝に銘じる必要がある。各国が足並みを揃えて個別具体的に対策を進めることこそが、結果的に世界をAMRから救うだろう。
■ Colm Leonard氏、Nick Crabb氏 “英国におけるプル型インセンティブのパイロットプログラムの設計とその目的”
多くの抗菌薬について、既存の抗菌薬の代替品や新規抗菌薬はほとんど開発されておらず、対策の優先順位が高い病原菌を標的とした抗菌薬の開発はさらに少ないのが現状である。抗菌薬の研究開発に対する投資は、多額の費用とそれに反して低調な収益性のため、商業的に魅力がないとみなされており、結果として「市場の失敗」を招いている。また、抗菌薬の研究開発におけるイノベーションもほとんどない。抗菌薬本来の価値は、既存の市場構造によって規定される価値を上回っており、どのように抗菌薬の価値を測るべきかという疑問が持ち上がっていることも影響しているだろう。
このような状況下で、英国は抗菌薬市場における「市場の失敗」に対処すべく、先陣をきって「プル型インセンティブ」を推し進めてきた。英国では、英国国立医療技術評価機構(NICE: National Institute for Health and Clinical Excellence)と英国国民保健サービス(NHS England & NHS Improvement)の支援で、抗菌薬市場の独自の課題に対処するために「プル型インセンティブ」という革新的なプロジェクトを開始している。「プル型インセンティブ」とは、抗菌薬の使用量ではなく、主に医療技術評価(HTA: Health Technology Assessment)によって測られる、社会にとっての抗菌薬の価値に基づいて、製薬企業に報償を付与する市販後の仕組みである。
経済モデリングと専門家の意見を通じ、抗菌薬の価値は、質調整生存年(QALY: Quality-adjusted life year)によって評価される。なお、抗菌薬の価値には、直接的な健康上の価値だけでなく、Diversity value(複数の感染症に適用できるか)、Transmission value(他者への感染をどの程度防げるか)、Enablement value(抗菌薬により外科手術等がどの程度実施できるか)、Spectrum value(耐性にどの程度影響を及ぼすか)も含まれている。
この「プル型インセンティブ」のプロジェクトは2019年7月に開始され、2020年末までに「プル型インセンティブ」の対象となる2種類の抗菌薬が選定される予定である。契約額の上限は、1種類の抗菌薬につき年間1,000万ポンドで、最長10年間の契約となる。英国は、2022年の春までに、プル型インセンティブ(サブスクリプションモデル)の実装を目指している。
このパイロットプログラムの成功は、価値評価に関する合意された枠組み、交渉を成功に導く支払いの枠組み、適正使用への支援、諸外国での類似した取り組みの開始等が尺度となり、評価されるだろう。
■ 質疑応答
講演後、質疑応答を通してご参加の皆様との議論を深めました。グローバルアクセス、抗菌薬のサプライチェーン、啓発活動、国際的な取り組みなどについて質問があがりました。
抗菌薬の価格上昇とアクセス確保のバランスをどのようにとるかというご質問に関しては、低・中所得国向けの階層別価格設定など、様々な調達モデルの利用について議論しました。
抗菌薬のサプライチェーンについてのご質問では、特に日本で発生したセファゾリン不足について議論がなされました。パネリストの方々からも、原薬の多くが中国やインドなどの一部の国でのみ製造されている点が指摘されました。より多くの国で原薬を製造する必要があるのか、また、製造する場合の安全性や環境基準の維持の方法について議論する必要性が強調されました。
国民を対象とした啓発活動についても質問がありました。抗菌薬の社会的価値、ひいては抗菌薬の研究開発に対する先行投資の意義を積極的に国民に伝えることの重要性が強調されるとともに、The Wellcome Trustの研究報告書“Reframing Resistance”が国民への啓発活動の考えるうえでの参考資料として紹介されました。
■プロフィール
Professor Dame Sally Davies (英国政府 AMR特使)
2019年、英国政府AMR特使に任命され、現在はトリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)の第40代学長も務める。
2011年から2019年まで英国政府の最高医療責任者、上級医療顧問を務める。2014年から2016年まで世界保健機関(WHO: World Health Organization)執行委員会のメンバーを務め、2019年には抗菌薬耐性(AMR: Antimicrobial Resistance)報告に関する国連機関間調整グループ(IACG: Inter-Agency Co-ordination Group)の共同議長を務めるなど、グローバルヘルスの第一人者である。
2020年、英国新年の叙勲では、公衆衛生と研究への貢献が評価され、2人目の女性(英国王室以外では初)としてバス勲章(GCB: Dame Grand Cross of the Order of the Bath)を、2009年にはデイム・グランド・クロス(DBE: Dame Commander of the Order of the British Empire)を授与されている。
Dr. Louise Norton-Smith (英国保健省 国際AMR戦略・供給部 担当部長)
英国のAMR特使(Professor Dame Sally Davies)の事務所、5,000万ポンドの資金調達に成功している英国のグローバルAMRイノベーション基金(GAMRIF: Global AMR Innovation Fund)、およびAMR外交とアドボカシーに関する英国政府の取り組みを監督している。また、G7、G20、国際連合を含む多国間フォーラムにおいてAMRに関する英国の交渉を主導し、英国のAMRアクションプランの重要な要素でもあるAMRに関する英国政府の国際的な取り組みを支援している。
英国保健省(DHSC: Department of Health and Social Care)に9年間勤務し、国内外の医療保健政策に関わるとともに、大臣について諸業務を担当してきた。これ以前は、パリにてメディアと質の高い情報へのアクセスを専門とする国際NGO Internews Europe に勤務。また、スーダンとウガンダで人道支援やセクシュアル・リプロダクティブ・ヘルスケアにも従事した経験を有す。スコットランドのエジンバラ大学で社会人類学と地理学の修士号を、Entente Cordiale scholarの奨学生としてパリ大学(パンテオン=ソルボンヌ)で国際開発学の修士号を修める。
Professor Colm Leonard (英国国立医療技術評価機構 医療技術評価センター コンサルタント クリニカルアドバイザー)
ダブリンでの学部研修、ダブリンやロンドン、カリフォルニア州スタンフォード大学大学院での研究を経て、2000年10月にマンチェスターの胸部内科医コンサルタントに就く。マンチェスター学術保健科学センター(Manchester Academic Health Sciences Centre)の呼吸器内科の名誉教授も務める。
2008年以来、英国国立医療技術評価機構(NICE: National Institute for Health and Clinical Excellence)の医療技術評価センターのコンサルタントクリニカルアドバイザーとして勤務しており、新薬や最先端のメドテック製品の評価を担当。
過去4年間にわたり、臨床責任者として、英国国立医療技術評価機構のみならず、英国保健省と英国国民保健サービス(NHS England & NHS Improvement)と共同で、新しい抗菌薬の価値評価と償還メカニズム開発のプロジェクトに従事。現在も呼吸器科医として、重度の肺疾患、特にサルコイドーシスや間質性肺疾患を専門に診療している。
Dr. Nick Crabb (英国国立医療技術評価機構 科学部 プログラムディレクター)
英国国立医療技術評価機構以前には、化学、製薬業界や研究所において勤務し、分析化学、プロセス技術、業務管理に関する20年以上の経験を有する。2010年、英国国立医療技術評価機構にアソシエイトディレクターとして就任し、診断評価プログラムの立ち上げと管理を担当。2014年には現在の職務に就き、英国国立医療技術評価機構による科学的助言、科学政策・研究プログラム、医療技術評価機関の欧州連合ネットワーク(EUnetHTA: European Network for Health Technology Assessment)への働きかけについて監督している。臨床、公衆衛生、ソーシャルケアに関するガイダンスの開発に資する技術や介入評価について科学的・政策的に幅広く関心を持つ。遺伝子・細胞治療を含む再生医療等製品など、新製品の利用可能性に起因するHTA(HTA: Health Technology Assessment)にかかる課題の検討や、抗菌薬の評価に関する手法について研究を実施。英国再生医療専門家グループの評価委員会の共同議長を務め、2016年に報告された再生医療の評価プロジェクトについて英国国立医療技術評価機構の取り組みを主導した。
<【開催報告】第90回HGPIセミナー「日本における予防接種の在り方と予防接種推進専門協議会の取り組みについて」(2020年11月12日)
【開催報告】第88回HGPIセミナー:園田正樹氏「これからの子どもを取り巻く医療の在り方を考える」(2020年10月9日)>
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