【開催報告】第142回HGPIセミナー「『世界腎臓デー2026』テーマから考える:腎臓の健康と地球の健康を両立する“グリーン・ネフロロジー/グリーン・ダイアリシス”の現在地」(2026年3月10日)
第142回HGPIセミナーでは、筑波大学医学医療系准教授であり、日立総合病院で腎臓内科の専門医として臨床の最前線に立つ永井恵氏をお迎えしました。永井氏は、日本透析医会における「Green Dialysisワーキンググループ」の委員長を務めるなど、医療の持続可能性を追求する国内の第一人者です。本セミナーでは、2026年の「世界腎臓デー(World Kidney Day)」のテーマである「すべての人の腎臓に健康を:人々のケアと地球の保護を両立する(Kidney Health For All – Caring for People, Protecting the Planet)」を軸に、腎疾患対策と「プラネタリーヘルス(地球規模の健康)」がいかに密接に関わっているか、そして医療現場から取り組むべき変革について、ライフサイクルアセスメント(LCA: Life Cycle Assessment)等の最新の研究データを交えて詳細にご講演いただきました。
<POINTS>
- 慢性腎臓病(CKD)の深刻な実態と日本人の脆弱性:国内のCKD患者数は約2,000万人に達し、成人5人に1人が罹患する「国民病」となっている。特に日本人では、他民族と比較して生まれ持ったネフロン(腎臓の基本単位)数が少ない可能性を示唆する研究もあり、生活習慣病による重症化リスクが高い可能性が指摘されている。
- 医療経済への巨大なインパクト:末期腎不全患者の治療費は1人あたり年間約400万〜600万円にのぼり、国内の透析医療費の総額は約1.6兆円と推計される。これは国家の社会保障費においても極めて大きな割合を占める課題である。
- 透析医療が環境に与える甚大な負荷:血液透析(HD)は、1回あたり約120L以上の浄化水と多量のエネルギー、使い捨ての資材を消費する。LCAを用いた算定により、日本の施設血液透析は1人1年あたり約4.1 t-CO2eq(二酸化炭素換算)のカーボンフットプリントを排出しており、これは一般的な医療サービスのカーボンフットプリントと比較して約20倍に相当する。
- 「薬剤」に潜む最大のインパクト:環境負荷を構成する要因(移動、水、電力、医療資材、薬剤)を分析した結果、温室効果ガス排出量および水消費量(ウォーターフットプリント)のいずれにおいても「薬剤」の製造・流通プロセスによる負荷が最大であることが判明した。
- 究極のグリーン・ネフロロジーは「腎機能の維持」:透析導入後の環境負荷は未導入の状態と比較して10倍以上に跳ね上がる。早期発見と進行抑制によって「今、目の前にある腎臓を守ること」こそが、未来の地球を救うことに直結する。
- 医療者の負担軽減と制度的インセンティブ:環境配慮を現場に浸透させるためには、スタッフの「情熱」に頼るだけでなく、診療報酬等の制度的インセンティブを通じて人材確保を可能にする仕組みを構築し、多忙な現場の負担を相殺する議論が不可欠である。
腎臓の進化と「沈黙の臓器」日本人が抱える不公平性
腎臓は約5億年前、生命が海から陸へ上がる過酷な過程で、体内の水と塩分を節約・再利用する高度な恒常性維持システムとして誕生した。左右一対の腎臓には、フィルターの役割を担う「糸球体」と再吸収を行う「尿細管」から成る「ネフロン」が合計約200万個存在し、絶えず血液を濾過して体内環境を一定に保っている。
しかし、腎臓は「沈黙の臓器」と呼ばれ、機能が著しく低下するまで自覚症状が現れないため、尿検査等の簡便なスクリーニングによる早期発見が極めて重要である。現在、日本の慢性腎臓病(CKD: Chronic Kidney Disease)患者は約2,000万人と推計されており、高齢化に伴い増加の一途を辿っている。
特に注目すべきは、民族間での「腎臓の不公平性」である。日本人は白人種等に比べて先天的にネフロン数が少ないということを示す研究もあり、腎臓の予備能力(ポテンシャル)が低い傾向にあると考えられている。そのため、塩分過多や高血圧といった生活習慣による負荷が、他民族よりも早期に腎不全へと直結しやすいという生物学的な脆弱性がある可能性が指摘されており、戦略的な早期介入が求められている。
透析医療の環境負荷を「LCA」で解明する
末期腎不全の代替療法である透析医療は、患者の命を繋ぐ不可欠な技術である一方、多大な経済的・環境的リソースを消費する。経済面では、透析患者1人あたり年間400万〜600万円の医療費を要し、国全体では年間約1.6兆円という巨額の費用が投じられている。
また、腎不全に至った際の代替療法である透析医療は、患者の命を繋ぐ不可欠な技術である一方、多大な水・エネルギーを消費し、大量の医療廃棄物を排出する「資源集約型」医療の側面を持つ。永井氏は、原材料の調達から製造、使用、廃棄までの全工程を評価する「ライフサイクルアセスメント(LCA)」の手法を用いて、この複雑な負荷を定量化した。
算定の結果、日本の施設血液透析(HD: Hemodialysis)の「商品やサービスが一生のうちにどれだけCO₂(と他の温室効果ガス)を排出したか」をCO₂換算で数値化したカーボンフットプリント(CFP: Carbon Footprint of Products)は、1人1年あたり約4.1 t-CO2eq(二酸化炭素換算)に達した。
在宅で行う腹膜透析(PD: Peritoneal Dialysis)の約2.6 t-CO2eq(二酸化炭素換算)を大きく上回ることが示された。
また、消費された水の背景にある「隠れた水」を評価するウォーターフットプリント(WFP: Water Footprint)の視点も重要である。
特筆すべきは、いずれの評価指標においても「薬剤」の影響が甚大であったことである。腎不全患者は処方薬の数や量が多い傾向にあるが、薬剤1錠、注射1本を製造・流通させるための負荷が、透析現場で直接消費される電気や水よりも大きくなっているという事実は、これまでの「グリーン・ダイアリシス」の議論に、サプライチェーン管理という新たな次元を加えるものとなった。
災害時における透析医療の脆弱性とレジリエンスの確保
大量の水と電力を必要とする透析医療は、災害時のインフラ途絶に対して極めて脆弱である。阪神・淡路大震災では配管の損傷が深刻な問題となり、東日本大震災では停電や断水に加え、原発事故に伴う集団避難という過酷な事態を経験した。
自身も、巨大台風が直撃した際の現場管理における恐怖を振り返り、地域に根ざした災害対策の重要性を指摘した。この課題に対し、透析コンソールの消費電力を実測し、設定の最適化によって電力を抑制する試みは、エネルギー制限下での救命に直結する知見である。
透析液の量や温度を調整することで、質を維持しながら電力を大幅に抑えられる可能性が示された。環境負荷を低減する「グリーン・ダイアリシス」の取り組みは、単なるエコ活動にとどまらず、資源の希少化や緊急事態への適応力を高める「レジリエンス」の構築そのものでもある。
医療現場の実装とビジネスモデルの転換:SDGsからネイチャーポジティブへ
環境配慮型の医療を推進する上で、現場スタッフへの負担増やコストの問題は避けて通れない。廃棄物の分別徹底や、医療者の手間が施設透析の約10倍に上るとされる腹膜透析への移行には、相応の労力が伴う。
持続可能な変革を可能にするには、適切な診療報酬の設定といった制度的インセンティブに加え、産業界全体のビジネスモデルの転換が必要である。
現在、世界的には持続的な開発目標(SDGs: Sustainable Development Goals)や環境(Environmental)・社会(Social)・ガバナンス(Governance)の3つの非財務要素を投資判断に積極的に組み込む投資手法であるESG投資、さらには廃棄物を資源と捉える「サーキュラーエコノミー」、自然資本を回復させる「ネイチャーポジティブ」といった視点がビジネスの前提となりつつある。
医療業界においても、単に「病気を治す」だけでなく、環境負荷の低減と健康の向上を同時に達成する「コベネフィット(相互便益)」の追求が求められている。
製薬企業や医療機器メーカーが、薬剤や機材の精緻な環境負荷データを公開し、共通のルールで評価できるプラットフォームを構築することは、客観的な議論と社会実装を加速させる不可欠なステップとなる。
持続可能な腎臓医療に向けた多層的な協働と政策のあり方
社会実装を加速させるためには、医療機関のみならず製薬企業や医療機器メーカーの積極的な参画が不可欠である。
現状では薬剤ごとの詳細な環境負荷データが不透明なため、環境学の知見に基づいた共通の評価ルールを策定し、各社が客観的なデータを公開して比較検討できるプラットフォームの構築が急務である。
さらに、患者・市民への啓発を通じた社会的な意識改革も欠かせない。
日本で腹膜透析の普及が遅れている背景や、献腎移植が国際的に見て極めて少ない現状(人口100万人あたりの献腎移植は米国18.80人に対し日本0.01人)は、単なる医療技術の問題ではなく、社会的な合意形成や体制の不足に起因している。
2025年9月に主要学会が連携して発行した「腎不全のための緩和ケアガイダンス」等に基づき、単に「長く生きる」だけでなく、「その人が自分らしく、満足感や充実感を持って生活できているか」という観点を重視した医療の提供が求められる。
患者の「生活の質」「生命の質」「人生の質」としても知られるクオリティ・オブ・ライフ(QOL: Quality of Life)を尊重しつつ環境負荷も抑えられる「保存的腎臓療法(CKM: Conservative Kidney Management)」を適切に提示することも、これからの時代の腎臓医療における重要な選択肢となる。
これからの展望
人間の腎臓が司る恒常性と地球環境の持続可能性は概念として共通しており、究極のグリーン・ネフロロジーは「今目の前にある腎臓を救うことであり、それが未来の地球を救うことに繋がる」という理念に帰結する。2030年までの目標達成に向け、科学的データに基づいた「見える化」を基盤に、学術団体、産業界、政策立案者、そして患者団体との対話を深化させ、人々の健康と地球の保護を両立させる次世代の医療政策を共創していくことが期待される。
【開催概要】
- 登壇者:永井 恵 氏(筑波大学医学医療系 准教授/腎臓内科医)
- 日時:2026年3月10日(火)16:00 – 17:15
- 形式:オンライン(Zoomウェビナー)
- 言語:日本語
- 参加費:無料
- 定員:500名
■登壇者プロフィール
永井 恵(筑波大学医学医療系 准教授)
腎臓内科の臨床医・研究者として、慢性腎臓病(CKD: Chronic Kidney Disease)および透析医療に携わる。日立総合病院 腎臓内科 主任医長、筑波大学附属病院 日立社会連携教育研究センター 准教授を兼任し、地域医療と大学教育・研究の橋渡しにも取り組む。近年は、従来のCKD・透析領域の臨床研究に加え、グリーン・ネフロロジー(Green Nephrology)やグリーン・ダイアリシス(Green Dialysis))として知られている環境配慮型の腎臓医療をキーワードに、透析医療の水使用・エネルギー消費・廃棄物等の環境負荷評価と改善策の検討を進めている。日本透析医会 腎不全対策委員会CKD対策部会 Green Dialysis WG 委員長として、現場実装を見据えた議論をリード。また、2024年8月より国立環境研究所 資源循環領域 客員研究員として、医療と資源循環・環境負荷低減をつなぐ学際的研究にも従事。診療指針づくりの面では、日本腎臓学会のCKD診療ガイドライン関連委員としても活動している。
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