【開催報告】第107回HGPIセミナー「プラネタリーヘルスとはなにか~考え方と今後の課題~」(2022年9月5日)
今回のHGPIセミナーでは、長崎大学 熱帯医学・グローバルヘルス研究科教授、学長特別補佐の渡辺知保氏をお招きし、プラネタリーヘルスという概念の背景、その捉え方、国内外の動向、そして実現に向けて私たちに出来ることは何かについてお話しいただきました。
<講演のポイント>
- 近年プラネタリーヘルスについて注目が高まっている。背景には、産業革命以降の人間活動の拡大が地球の気候や生態系に重大な影響を及ぼし始め、それが人間の健康に直接・間接的に影響を及ぼしていることが科学的にもわかってきたことがある。人間による影響が地球の規模で観測されるようになった現代を、人新世(Anthropocene)という新しい地質時代区分として呼ぶことが提唱されている
- プラネタリーヘルスは「地球(生態系)の健康」と「人間(と文明)の健康」が相互依存的な関係であるという見方に基づく研究と実践の枠組みである。持続可能な開発目標(SDGs: Sustainable Development Goals)との共通点は多いものの、そこで示されている17の目標について、各目標間の関係性を重視した考え方とも言える
- 近年、国内外の国際機関や大学でプラネタリーヘルスの動きが盛んである。長崎大学では、2020年より全学をあげてプラネタリーヘルスに取り組み、現代の課題を学際的な連携で解決できるリーダーを育成することを目指している。また、日本国内からプラネタリーヘルス・アライアンス(PHA: Planetary Health Alliance)に加盟する組織も増加している
- プラネタリーヘルスの実現に向けて、私たちは国や分野を超えて取り組むべきである。オーストラリア Monash 大学のTony Caponが指摘する取り組みの 3つの柱やサンパウロ宣言等、行動や考え方の指針として既に示されているものが今後の参考になる
■プラネタリーヘルスの背景としての人新世
国際連合の提唱により行われたミレニアム生態系評価(2000-2005)など様々なデータにより、産業革命以降、人類が環境への負荷とトレードオフで「健全な人間社会(Healthy Human Society)」を獲得したことが裏付けられている。地球の歴史(地質時代区分)において、現在は公式には完新世(Holocene)と呼ばれている。しかし人間の活動が地球の気候や生態系に重大な影響を及ぼし始めた現代は、人新世(Anthropocene)と呼ぶべき時代になっていると2000年頃に提唱された。このまま対策を打たなければ、二酸化炭素などの温室効果ガスはますます増え、地球の気温は上昇する一方である。
■プラネタリーヘルスとは何か
プラネタリーヘルスは「地球(生態系)の健康」+「人間(と文明)の健康」である。2者は独立ではなく相互依存的であり、前者の「賢い管理(Wise Stewardship)」によって、後者を実現することが強調されている。
プラネタリーヘルスは、医療・公衆衛生・生物多様性・保全生態学などの約20人の研究者によって2015年にLancetに発表された「Safeguarding human health in the Anthropocene epoch: report of The Rockefeller Foundation–Lancet Commission on planetary health」という論文において紹介された。持続可能性に関わる既存の枠組みやアイディアを踏まえた上で、環境・経済・社会のバランスをとることの重要性が訴えられた。学際研究の拡充、環境-社会経済-健康など多領域にまたがるサーベイランスを組み合わせて解決を図っていくために、セクターとスケールを超えたガバナンスの構築を提言している。
上記の論文でも引用されているプラネタリー・バウンダリーは、現代の環境問題を考える上で最も重要な概念の一つである。気候変動、生物圏の統合性、オゾン層枯渇などの地球の持続可能性にかかわる9つの領域が特定され、現在までに一度更新されている。ただしあくまで地球の持続可能性に焦点を当てた概念であるため、ここでは人間の健康は第一義的には扱われていない。そのため、人間の社会基盤として水・エネルギーや健康、教育、公平性などの最低限必要な量を示すソーシャル・バウンダリーという概念と組み合わせた考え方も存在する。プラネタリー・バウンダリー(外側)の大きな円とソーシャル・バウンダリー(内側)の小さな円に挟まれたドーナツ状の領域が、人間の活動領域であるという考え方である。
プラネタリーヘルスによくある質問として、「SDGsと同じではないか?」というものがある。SDGsの17目標をカテゴリーによって3種類にわけ、下層が生物圏、中層が社会、上層が経済という3層のウェディングケーキのような構造として表現することがある。持続可能性に関する議論は、いずれかの層のみに集中することがしばしばだが、上部の「人間の健康」の持続性を保つためには、下部の基盤となっている「地球の健康」の持続性も同時に保たなければならない。プラネタリーヘルスとSDGsとの共通点は多いものの、プラネタリーヘルスは、シナジーやトレードオフなど各々の目標間の関連を重視し、SDGsが目標年としている2030年のさらに先の持続可能性も見据えているものであると言える。
■世界の動向
ここ数年、世界でプラネタリーヘルスをめぐる動きが盛んになっている。ハーバード大学主導のプラネタリーヘルス・アライアンスによって2021年4月に開催されたプラネタリーヘルス週間(Planetary Health Week)には、100カ国を超える国々から4,000人以上が登録・参加した。また、同年10月には、様々な職業人、企業、国家など、あらゆるステークホルダーにプラネタリーヘルスの実現に向けて協働を呼びかける「サンパウロ宣言」が発表された。さらに英国の医学生物学研究財団であるウェルカム・トラストは、同年12月に新たな活動の3本柱として、感染症・メンタルヘルスと並んで「気候と健康」を掲げた。
2021-2022年にかけては、国際機関でも関連する様々な動きがあった。2021年8月に発表された気候変動に関する政府間パネル(IPCC: Intergovernmental Panel on Climate Change)第6次評価報告書 第1作業部会報告書では、「気候変動が人間活動の影響であることに疑いの余地はない」と初めて明記された。また同月、国際学術会議(ISC: International Science Council)はUnleashing Scienceレポートにおいて、持続可能性のための科学の体制・予算の変革を提言している。同年12月には、世界保健機関(WHO: World Health Organization)、国連食糧農業機関(FAO: Food and Agriculture Organization of the United Nations)、国際獣疫事務局(OIE: L’Office international des épizooties)によってなされていたワンヘルスに関する議論に、環境を専門とする国際連合環境計画(UNEP: United Nations Environment Programme)も加わって、ワンヘルスの再定義が行われた。
■国内外の大学において、全学規模でのプラネタリーヘルスの取り組みが開始している
プラネタリーヘルスへの注目が集まる中、いくつかの大学がプラネタリーヘルスに関する全学規模の取り組みを開始した。例えばカリフォルニア大学では、Lancetの論文掲載とほぼ同時期の2016年より、全キャンパス連携組織であるカリフォルニア大学グローバルヘルスインスティテュート(UCGHI: Global Health Institute)の中にプラネタリーヘルス・センター・オブ・エキスパート(Planetary Health Center of Expertise)を設置している。医学生と他研究科院生が協働しフィールドの長期実習を行うなど、研究だけでなく教育にも力を入れ、キャンパス間の連携を通して様々な研究・教育を展開している。
長崎大学では、2020-2023年の全学をあげてのアクションプランにおいて、プラネタリーヘルスを推進している。2022年10月よりプラネタリーヘルス学環を開設し、環境–経済–社会にまたがる課題を同定し、グローバルヘルス・経済・工学・多文化社会など学際的な連携によって、解決を見出す能力を有するリーダーの育成を目指している。そのため学部や学域を横断するプロジェクトを推進し、競争的資金枠や奨学金制度等を設けている。プラネタリーヘルス・アライアンス(PHA: Planetary Health Alliance)への参加や医学部教育のプラネタリーヘルスへの意識と責任意識を高めることを目的に開発されたプラネタリーヘルス・報告カード(Planetary Health Report Card)の実施、2021年プラネタリーヘルス年次総会で作成されたサンパウロ宣言の日本語訳版を作成する等、海外との連携にも積極的に取り組んでいる。
■プラネタリーヘルスの実現に向けて出来ること
ランセット誌の編集委員であるTony Capon氏は、プラネタリーヘルスの実現の柱として、1. 地球と全ての生物圏を意識する、2. 将来世代を意識する、3. システム思考を導入する、という3点を指摘している。
1については、地域だけを見れば、利害対立が起こる一方、地球だけを見れば、脆弱地域の崩壊や格差拡大を招く。また地球全体だけでなく、それぞれの地域の固有性を考えなければ、具体策が見えない。といった点が挙げられるだろう。2は、課題解決型(現在)から課題予見・社会構築型(未来)ヘの移行を意識することにつながる。これら1、2を可能にするものとして3がある。現代においては経験的に導き出した仮想的な因果関係によるモデルが問題解決に頻用されるが、空間や時間を超えた問題解決のためには、システム全体のふるまいを決める諸々のプロセスを踏まえたモデルへの転換が必要である。システム思考は、環境変化から健康影響につながる複数の道筋のモデル化を含むプラネタリーヘルス研究に重要である。
多くの人が、「個人の努力として何ができるか?」という質問を投げかけてくる。国際応用システム分析研究所(IIASA: International Institute for Applied Systems Analysis)のAlbert van Jaarsveld氏は、「結局、持続可能性は人間の問題で、尊厳を保った世界を築くためには転換が必要だ」と述べ、転換への努力として、SDGsよりも少なく単純化された以下の6つの項目を日々自分に問うことを推奨している。
- (持続可能性に貢献するような)教育にかかわったか
- 平等に心がけたか
- (消費・交通などにおいて)循環経済を心がけたか
- 低炭素努力をしたか
- 生物圏に気遣ったか
- デジタル技術を有効利用したか
この他、前述のサンパウロ宣言のような社会全体への呼びかけや、気候変動を「危機である」ことを宣言する各自治体や省庁の取り組みなどがある。気候変動の状況について、一個人の意見表明が大規模デモなどの市民運動に繋がったことを見ても、問題意識を「表明すること」自体が極めて重要と言える。
最後に、“東洋型”プラネタリーヘルスを提案しておきたい。プラネタリーヘルスは、「地球の健康」への賢い奉仕(wise stewardship)によって「人間の健康」を実現するという考え方であり、「人間が自然に働きかける」という指向性は、これまでと変わらない。しかし「自然に順応する人間社会」という方向も必要なのではないか。西洋が主導するプラネタリーヘルスに東洋的な考え方を持ち込むことで、課題の解決に寄与できるものと考えている。逆説的ではあるが、人間中心の社会を持続させるならば、人間中心主義は捨てなければならない。
【開催概要】
- 登壇者:渡辺 知保 氏(長崎大学 熱帯医学・グローバルヘルス研究科教授、学長特別補佐)
- 日時:2022年9月5日(月)19:00-20:30
- 場所:Zoomウェビナー形式
- 言語:日本語
- 参加費:無料
■プロフィール:
渡辺 知保 氏(長崎大学 熱帯医学・グローバルヘルス研究科教授、学長特別補佐)
1989年東京大学大学院医学系研究科単位取得済退学。2005年~2017年東京大学大学院医学系研究科・教授(人類生態学)、2017年~2021年国立研究開発法人・国立環境研究所・理事長、2021年より現職。東京大学名誉教授。保健学博士。日本健康学会・理事長(2017年~現在)、環境科学会・会長(2021年~現在)、日本学術会議第2部連携会員、Society for Human Ecology元第3副会長、Ecological Society of Americaヒューマンエコロジー部門元部会長も務めている。
■長崎大学×Planetary health
https://www.nagasaki-u.ac.jp/ja/pickup/ph_0.html
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